森達也 『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』

  • 視聴率という大衆の剥きだしの嗜好に追随する現実を、公共性というレトリックに置換するために、「客観的な公平さ」という幻想を常に求められ、また同時にそれを自らの存在価値として、テレビは勘違いを続けてきた。」(P90)
  • 「絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの嗜好や感受性が異なるように、事実もさまざまだ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。今のメディアにもし責められるべき点があるのだとしたら、視聴率や購買部数が体現する営利追求組織としての思惑と、社会の公器であるという曖昧で表層的な公共性の双方におもねって、取材者一人ひとりが自分が感知した事実を、安易に削除したり歪曲する作業に埋没していることに、すっかり鈍感に、無自覚になってしまっていることだと思う。一人ひとりが異なるはずの感受性を携えているのに、最終的な表現が常に横並びになってしまうのは、そんな内外のバイアスに、マニュアルどおりの同じ反応しかしないからだ。」(P171)