大切なことはいつも小さな声で語られる

久しぶりに吸い込まれる文章に出会った。文中の言葉で言うならば「世界に触れるすべを掴んだ」文章とでも言おうか。控えめな言葉で静かに語られる長い話は、世界との一体感を味わうことを共有させてくれた。そして僕が求めるあの本能の境地、「美しい時間」への言及。作者は東良美季(Miki Tohra)さんというのか。長いことはてなを巡回してきて、今日初めて知った。はてダやはてブを見る限りではそれほど有名というわけではなさそうだけど、もっと多くの人に読まれるべきだと思う。長い本文のなかから、特に僕の心に触れた箇所を長く引用。誤解のないように断っておけば、これは全文ではない。引用元の東良さんの長い文章のごくごく一部分に過ぎず、しかも結論部分でもない。それでも僕はこの箇所がとても気に入った。できればリンク先で全文を読んでください。

 人間とはすべての生き物の中で、唯一自分がいつか死ぬとわかっている存在である、という言い方がある。だからある時期になるとたいていの人が考える。死とは何だろう、自分って何だ、宇宙っていったい──、と。だから人間は素晴らしいのだという意見もあるかもしれないが果たしてそうだろうか? 野を駆けるケモノのようにしなやかに走り獲物を狩り、発情期が来たら交尾し、メスは子供を産み、オスは自らの役目を終えれば静かに死を迎える。その方がよほどシアワセではないか。

 

 だけど我々はそうは生きられない。精神分析岸田秀の言い方を借りれば「人間は本能が壊れているから」だ。本能とは何か? 世界と一体となって生きる能力のことだ。ケモノ達が獲物を捕る時、交尾する時、出産する時、そして死を迎える時、彼らはすべからく世界の法則と一糸乱れずシンクロしている。宇宙の歯車としっかりとかみ合い、完全に同期して動いている。僕は時々想像する。ケモノがしなやかに野を駆ける時、彼らはどれほどの快楽を得ているだろうか、と。

 

 人間はそんな壊れた本能を補填するために「言語」を生み出した。「言語」とは他者と意思をやりとりをすると同時に、自分自身の中で論理を積み上げていくためのものでもある。ゆえに「言語」がなければ「思想」は存在しない。「思想とは言語なのだ」という言われ方があるのはそういうことだ。しかし、残念ながら「言語」とは元々が壊れた本能を補うために生まれたものなので実はそれ自体にはまったく実体がない。いわば「記号」のようなものだ。「記号」には実体が無いからそれ自体をいくら積み上げて論理を構築しても、それらはいわばヴァーチャルなものでやはり実体は無い。それらが果たして正しく「世界」を描いているかは、実は誰にもわからない。

 

 でもあなたは感じたことはないか? 自分が今まさに正しく動いていると感じる時が、自分は絶対に間違ってないと感じる時が。恋人と抱き合っている時、大好きな人とセックスしている時、幼い我が子が自分に微笑む時、ロックンロールを聴いている時、サーフィンをしている時ダイヴィングをしている時、クラブで踊り続けている時──、この時だけは最高だ、自分は絶対に間違ってないと思う。それはもちろん一瞬の錯覚かもしれない。しかし残念ながら我々はそういうやり方でしか「世界」を一瞬でもかいま見ることは出来ない。「言語」を積み上げているだけでは「世界」の片隅にさえ手を触れることすら出来ないのだ。

 

 例えば僕はサッカーを見ていて、中田英寿中村俊輔という人達は「死とは、自己とは、宇宙とは」なんて絶対に考えないだろうなと思う。イチロー野茂英雄といった人達も同じだろう。何故なら中田が中盤からゴール前へ絶妙なスルーパスを出す時、イチローがライトからレーザービームでサードランナーを刺す時、彼らは確実に「世界」と一体になっているからだ。そこには一切の「言語」も一切の論理も物語も要らない。美しく軌道を描くボールには世界中の人達が共有する快楽がある。世界中の人達が共有する快楽、それこそが「世界」だ。

東良さんの本家(?)ブログ
毎日jogjob日誌 by東良美季
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