子をつくらぬ理由

読売ウィークリー2.19

今週の読売ウィークリーのウェブサイトで以下のような紹介を目にし、帰りに買って帰る。

メガ調査 第2弾「人口減社会
1万人に聞いた
「子をつくらぬ」理由

「夫の子はいらない」
「遺伝子を残したくない」
「幸せに必要ないもの」
「今の社会でなんか‥‥」
子育て支援焼け石に水」の自己チュー哲学

新聞に「日本、人口減少時代」などと衝撃的な見出しが躍る昨今。まさに国家的な緊急事態で、政府も本格的な対策に乗り出している。そこで、本誌はネット調査サービス「gooリサーチ」と共同で行っている「メガ調査第2弾」として、20歳以上の男女1万人に「なぜ子どもをつくらないのか」を聞いた。その結果、既婚、未婚を問わず、"自己チュー"哲学を色濃く反映した驚くべき回答が続出。少子化問題の解決が容易ならざる実態が浮き彫りに‥‥。

「"自己チュー"哲学」というのはあくまで子持ち世代・少子化反対の中年を煽る媚びた釣りワードだと思ってさらりとスルー。子供を生むことに否定的・悲観的な人を自己中心的だと、いったいどんな基準に照らし合わせれば言えるのか僕にはわからないけれど、まさか社会・国家のためになら出産を強要してもいいなんて言うんじゃないよね? "自己チュー"の次は「非国民」とか?
僕が釣られたのは「遺伝子を残したくない」「今の社会でなんか・・・」あたりかな。少し前までまさしくそんな風に思っていたので*1。あとはまあ大体そういう理由だよねというのがびっしりと並んでいる感じ。目新しさはないけれど、1万人への調査結果ということで、世代的なものではなく、わりと広い世代で考えられていることなんだなと実感できたことは面白かった。

*1:いまは単純にそうは言えないと思っている。最近では、それは結論ではなく始まりで、そういった絶望から希望や意義をどうやって見つけ出していくのかということが子供を持つ前に試されていることなんだというような気がしてならない。

人生巧者になろう

いまさら「ゆとり教育」などを持ち出してあれは間違いだったと始めるのはまるで無知ゆえの脳内妄想みたいで気恥ずかしいのだけど、それでも僕はこういう風に始めてみたい。ゆとり教育は間違いだったと。
世の中のあらゆる局面に優劣の比較が潜んでいることは小学生でも知っている。勉強の出来や運動神経、容姿やおもしろさやゲームのうまさなど、どんな場面でも優劣の差は現れる。たとえ運動会でみんなで一緒にゴールしたとしても、成績表の表示を曖昧なものに変えたとしても、直感的に嗅ぎとる優劣の差から逃れることなどできないし、コンプレックスや挫折感を拭い去ることはできない。
だから件のゆとり教育なるものは勝ち負けの色分けに疲れた大人たちの単なる欺瞞に過ぎなかったと思う。
大事なことはそうやって厳然と存在する勝者と敗者の差を子供たちの目から隠すことではなく、動かしがたく受け入れがたい現実を前にしたときにどうやって心が挫けることを防ぎそれを乗り越えるのか、そういった観点を提示しその方法を教えることだと思う。虚無に捕らわれないためのテクニック。まさにネバーエンディング・ストーリー*1
具体的にはまだわからない。僕自身も子供に伝えるべき確固たる解決策を掴んではいない。けれどもここ数年、モラトリアムが終わって社会に放り出された友人たちやその友人に忍び寄る虚無の影や、そこを切り抜けようとしている友人たちの姿を見て*2、その対策こそ、これから自分が獲得して、何よりも優先して子供たちに伝えていきたい(伝えなければ)と思うことなのだ。

まだまだ未熟者です。

*1:初めて『ネバーエンディング・ストーリー』を観たのはまだ小学生にあがるかあがらないかのころだったけれど、その中で語られる(カタカナの!)「キョム」が意味もわからずただ恐かった。地面がどんどん崩落していくことや陰惨な底なし沼、不毛の荒野、それが「キョム」なんだと思った。

*2:もちろん僕自身もそのひとりだ

大切なことはいつも小さな声で語られる

久しぶりに吸い込まれる文章に出会った。文中の言葉で言うならば「世界に触れるすべを掴んだ」文章とでも言おうか。控えめな言葉で静かに語られる長い話は、世界との一体感を味わうことを共有させてくれた。そして僕が求めるあの本能の境地、「美しい時間」への言及。作者は東良美季(Miki Tohra)さんというのか。長いことはてなを巡回してきて、今日初めて知った。はてダやはてブを見る限りではそれほど有名というわけではなさそうだけど、もっと多くの人に読まれるべきだと思う。長い本文のなかから、特に僕の心に触れた箇所を長く引用。誤解のないように断っておけば、これは全文ではない。引用元の東良さんの長い文章のごくごく一部分に過ぎず、しかも結論部分でもない。それでも僕はこの箇所がとても気に入った。できればリンク先で全文を読んでください。

 人間とはすべての生き物の中で、唯一自分がいつか死ぬとわかっている存在である、という言い方がある。だからある時期になるとたいていの人が考える。死とは何だろう、自分って何だ、宇宙っていったい──、と。だから人間は素晴らしいのだという意見もあるかもしれないが果たしてそうだろうか? 野を駆けるケモノのようにしなやかに走り獲物を狩り、発情期が来たら交尾し、メスは子供を産み、オスは自らの役目を終えれば静かに死を迎える。その方がよほどシアワセではないか。

 

 だけど我々はそうは生きられない。精神分析岸田秀の言い方を借りれば「人間は本能が壊れているから」だ。本能とは何か? 世界と一体となって生きる能力のことだ。ケモノ達が獲物を捕る時、交尾する時、出産する時、そして死を迎える時、彼らはすべからく世界の法則と一糸乱れずシンクロしている。宇宙の歯車としっかりとかみ合い、完全に同期して動いている。僕は時々想像する。ケモノがしなやかに野を駆ける時、彼らはどれほどの快楽を得ているだろうか、と。

 

 人間はそんな壊れた本能を補填するために「言語」を生み出した。「言語」とは他者と意思をやりとりをすると同時に、自分自身の中で論理を積み上げていくためのものでもある。ゆえに「言語」がなければ「思想」は存在しない。「思想とは言語なのだ」という言われ方があるのはそういうことだ。しかし、残念ながら「言語」とは元々が壊れた本能を補うために生まれたものなので実はそれ自体にはまったく実体がない。いわば「記号」のようなものだ。「記号」には実体が無いからそれ自体をいくら積み上げて論理を構築しても、それらはいわばヴァーチャルなものでやはり実体は無い。それらが果たして正しく「世界」を描いているかは、実は誰にもわからない。

 

 でもあなたは感じたことはないか? 自分が今まさに正しく動いていると感じる時が、自分は絶対に間違ってないと感じる時が。恋人と抱き合っている時、大好きな人とセックスしている時、幼い我が子が自分に微笑む時、ロックンロールを聴いている時、サーフィンをしている時ダイヴィングをしている時、クラブで踊り続けている時──、この時だけは最高だ、自分は絶対に間違ってないと思う。それはもちろん一瞬の錯覚かもしれない。しかし残念ながら我々はそういうやり方でしか「世界」を一瞬でもかいま見ることは出来ない。「言語」を積み上げているだけでは「世界」の片隅にさえ手を触れることすら出来ないのだ。

 

 例えば僕はサッカーを見ていて、中田英寿中村俊輔という人達は「死とは、自己とは、宇宙とは」なんて絶対に考えないだろうなと思う。イチロー野茂英雄といった人達も同じだろう。何故なら中田が中盤からゴール前へ絶妙なスルーパスを出す時、イチローがライトからレーザービームでサードランナーを刺す時、彼らは確実に「世界」と一体になっているからだ。そこには一切の「言語」も一切の論理も物語も要らない。美しく軌道を描くボールには世界中の人達が共有する快楽がある。世界中の人達が共有する快楽、それこそが「世界」だ。

東良さんの本家(?)ブログ
毎日jogjob日誌 by東良美季
http://jogjob.exblog.jp/

息ができない

知っている人も多いと思うけれど、MSN毎日インタラクティブ格差社会を扱った特集を組んでいる。下の引用は1月7日現在の目次。
縦並び社会・格差の現場から:MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/tatenarabi/

1月6日  中間集計から
     棄民の街
1月5日 株に乗り遅れるな
1月4日 時給は288円
1月3日 患者になれない
1月2日 年金移民
12月31日 眠りながら走れ
12月30日 派遣労働の闇
12月29日 ヒルズ族になれなかった男
12月28日 アンケートと連携の新連載 29日夜開始

この目次を見るだけで特集の趣旨や輪郭がつかめる。各項自体はどこか既視感を覚える。それは断片的に報道などでそれを目にしているからだろう。それがまとめられると、これほど絶望的な重苦しい様相を呈するのかと驚く。これが現実か。ただし各記事に付けられた二択のアンケートには呆れる。
感想や補足などはまた後日。

再開の狼煙

はてなダイアリーの記法さえ忘れつつあるいま、ひっそりと再開の狼煙を上げてみる。
自分の2006年に少しでも彩を添える、じゃなくて、とりとめのない想いとか考えに塗り絵のように少しだけ縁取りを与えてやろうかと思ったから。
あとはてな以外のブログも色々と利用してみて、改めてはてなの便利さに気がついたというのもある。なんていうか自分には合っている気がする。
とにかくだ、ここは言うまでもなく当たり前のことを、あるいは「言うまでもなく当たり前のこと」だからこそ誰も教えてくれず、でも本当はそういうことを誰かから聞ければよかったなと思うことを、ただ自分が愚かだからそういうのを聞いたことが無かっただけなのかもしれないけれど、とりあえず生煮えでもいいから書き出してみるところだったはずと再確認して今日はおしまいにしたい。さようなら。

つつがなく過ぎゆく人生

昼過ぎに某IT企業で営業をしている大学時代の友人Uから晩御飯のお誘いメール。

19時上野駅。駅ビルアトレの本屋で本を物色していたUと合流、街にくりだす。

上野の街は相変わらず人が多く、雑多な雰囲気。モダンに整備された駅構内を出て通りを渡ると、軒先に商品をこれでもかというぐらいに積み上げた小さな店がJRの高架に沿って並ぶ、市のような繁華街に変わる。土曜日の夜とあって、狭い通りはサラリーマンや学生や浮浪者や三国人やキャバクラのキャッチで溢れかえっている。その熱気に押しやられるようにしてネオンの光の外でオフィスビルが眠る。寿司を食べよう、と言う彼に従いその歓楽街の路地裏を右に左に進む。どうやら目的の店があるようだ。どこに行くのか聞いても「行けばわかるよ」とのこと。

道すがらお互いの近況報告をする。といっても僕はもっぱら聞く側に。彼の話には昨今の日本のシビアなビジネスシーンで活躍する者の経験や技術が散りばめられていて何を聞いても勉強になる。ひと言で営業といっても彼の会社の営業は恐ろしく合理的だ。適切なタイムスケジュールを組み、取引先の社内力学をも含むさまざまな情報を仕入れ、契約までのシナリオを作り、その際に考えられるすべてのリスクを洗い出し、そのリスクを潰すための具体的な方法を考え、実行し、得られた情報をミーティングで共有する。口で言うと簡単だけど、それを実行するのは生半可なことではない。情報を手に入れるための取材力や交渉力(適切な話題を適切なタイミングで発する力、交渉の際に相手に伝える情報量をコントロールする力など)、それにもちろん豊富な知識などがあって初めてそれは実行可能になるものだからだ。本人は、「うちはベンチャーだからこれぐらいしないと生き残れない」と謙遜するけれど、その徹底した方法論の獲得は彼のブランド力に直結し、彼の価値を高めている。もちろん彼のような(そして彼以上の)営業マンを抱える彼の会社は順調に業績を伸ばしている。

「おこのみ寿司」の前にはすでに10人前後の人がいて、ガラス張りの引き戸の向こうの狭いカウンターの様子を眺めて並んでいた。築地の寿司屋風の、無造作な狭い店内の造りはネタ勝負という感じで期待が持てる。そして「行けばわかるよ」というUの言葉は店の看板に書かれた文字を見て納得。「毎週土曜日半額」。握り寿司で、土曜日の夜で、半額ですか!

待っているあいだに会社の給与制度について話を聞く。彼の会社の給与制度は年俸制だと思っていたのだが、年俸制ではなく「裁量労働制」だと訂正を受ける。裁量労働制とは、勤務の管理の軸を勤務時間ではなく実績評価に置き、職務の遂行手段及び時間配分の決定等を社員にゆだねる成果主義の給与制度のひとつとのこと。この制度の問題は、近頃ニュースにもなっているけれど、実際の労働時間に関係なく、労資であらかじめ合意した時間を働いたものとみなして賃金を支払う仕組みであるため、どれだけ残業時間が増えても残業代が支払われない点。個人の能力に裁量を求めるといえば聞こえはいいが、実際には優秀な彼であっても遅くまで残業をしなければこなせないだけの仕事量を抱えている。けれどもいまこの制度を導入する企業は増えている。

20分ほど待って、通り沿いのカウンターではなく奥のやや広めの店内に案内される。すぐに生ビールを注文、待ってましたの瞬間の到来である。出されたビールを一息で半分ほど飲み干して、まぐろとサーモンを注文。Uはサンマと関サバ。「あっ、関サバ!」「あっ、サンマ!」と、先を越された思いで軽い嫉妬心を覚え、無難なところから始めてしまったおのれの才覚に悪態をつくが、マグロを頬張ってすぐに平常心を取り戻す(笑)。続いて大トロとサンマを注文。大トロが口の中で溶ける。生姜ののったサンマが食欲をかき立てる。

食事中の話題ももっぱら彼の仕事について。彼とは大学卒業後も定期的に食事をし、酒を交わす仲だけど(そして毎回ご馳走になっている!)、会うたびに成長していて驚かされる。今回もそのことを強く感じた。彼の社会的評価を示す客観的なデータである年収がそのことを裏付ける。裁量労働制のもと膨大な残業をこなしている現実があるにせよ、すでにそれは同世代の平均を超えている。カウンターに並んで僕と話している彼は、やたらに酒を飲み酔っ払うと手がつけられなくなる大学生ではなく、高い能力を求められる職場でもうすぐ一人前になろうとしているひとりの社会人であることをいまさらながら実感する。

生姜に刺激されたとどまることを知らない僕の食欲も、カジキ、イワシ、エンガワを続けて注文し、その後アジ、エンガワ、ギョクなどを食し、瓶ビールを一本飲み乾したころにはどうにか沈静化される。というか、少々喰いすぎ。最後は少し前かがみになりながらお店をあとにした。

腹ごなしのために上野公園内の不忍池を一周する。喫煙者コミュニティの有用性についていい加減な議論をする。実際は、喫煙者のコミュニティがどれほど有効かを問う与太話。喫煙所でタバコを吸うことによって、普段なら接する機会のないほかの部署の人間と接点が生まれ、そこから得る情報が時に有益である、とUが経験に基づく雑感を披露。それに対しては、ウーム、されども昨今の非喫煙者増加傾向を鑑みるに、左様な可能性より、非喫煙者との接触可能性を損うデメリットのほうが大きいのではなかろうかいやどうだろうか、と反証する。話は結論のでないまま収束。ちょうど池の周りを一周したところで駅に向かう。

帰りの電車のなかで僕が考えていたこと。それは誰かと誰かが友人であるということ。僕とUは友人だ。それも、かつて同じ時間や経験を共有し、同じ食事を食べ、似た感性を持つかなり親しい友人だと言える。けれども、そうであっても、それは能力の対等さを意味しない。自分の友人が有能だからといってそれは自分が彼と同じぐらい有能であることを意味しない。少なくとも「類」と「友」は必ず一致するわけではない。こんなことは当たり前だ。けど、では友人同士を結びつける力とはいったい何なのだろうかと考えると、それはよくわからない。僕は彼から多くのものを得ているけれど、はたして自分は彼に何かを与えることができているだろうか。もしかすると僕はこうやって彼の大切な時間を損なっているのではないか。そんなことを考えていると、つり革につかまって彼の話を聞きながら、僕は少し後ろめたいような気持ちになった。

「もう一杯どう?」と誘うUのお誘いを断って僕が家に帰ることにしたのはそんな理由があったのかもしれない。

Jusqu’ici tout va bien

僕のラップトップ、ThinkPadのR32がついに逝ってしまった。起動ボタンを押してマシンを立ち上げてもハードディスクは非常に微弱な回転音しか立てず、必要な回転数に達しないのか、いつまでたってもOSを立ち上げることができなくなった。
 このラップトップには、1年前、ハードディスクが突如聞いたこともない不吉な音をたて始め、やがて起動できなくなり、やむなく使用を中止してそのまま放置しておいたら、春先に気まぐれで電源を入れると何事もなかったように起動し、その後今日に至るまで使い続けてきたという経緯があり、今回のトラブルにはなんとなく決定的な雰囲気が漂う。
 基本的にメールアドレスや大事な作業のデータなどは他のPCと同期して共有してあるのだが、最後に同期をしたのは2週間も前のことだ(!)。この2週間分のメールや作業、大事なデータは取り戻すことができないだろう。こんなことなら春先に偶然起動してくれた時点で完全にバックアップをとりHDDを換装すべきだった。
 「まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だ」という考え方は、どうしようもなく致命的だ。反省。それにしても・・・・。