自己評価の下方修正

希望格差社会
コメント欄で教えていただいた内田先生のエントリー。以前書いた拙エントリーと重なる部分も多く刺激的だった
ただ実際には、「『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」はずの学校教育の場は、全体的にみると、「個性の尊重」や「ゆとり教育」といった名の下にかなりの割合でその下方修正能力を失っているのではないかと思う。足が遅くてもいいじゃないか、勉強ができなくても絵が上手に描ければいいじゃないかと、生徒が現実に直面することを巧みに回避することが「個性の尊重」として蔓延してしまっているように思える。
と同時に、子供の自己評価を下方修正する役目を果たすもうひとつの場である社会は、共同体の消滅によりその機能を果たすことなく、家庭では客観的な判断力を欠いた親によって「お前ならもっとできる」「やりたいことをやりなさい」「夢は叶う」と教え込まれ、期待値をひたすら吊り上げられる。
そして、そんな極めて限られた世界の中にも、情報化社会の名に相応しく、日夜、様々な成功者のサクセスストーリーが届けられる。父親が次の日から始まる一週間の労働を思って週末の終わりを名残惜しく思っているそのときに、その子供は部屋で『情熱大陸』を見、若いころはアルバイトをして食いつなぎながら創作活動に勤しみようやく認められてメジャーデビューできたことを嬉々として語るアーティストの体験談を聞いて、自らの思いを強める。俺にだってできるはずだと。最初は苦労したっていいんだ、アルバイトだっていいんだ、何も考えずに社畜になっている奴らよりよほど有意義な人生がそこにはあるのだと。
登録制のガテン系の仕事をしたことがある人ならわかると思うが、いまそのような現場には驚くほどアーティスト志望が多い*1。かつての鳶や左官のイメージとは裏腹に、彼らは未来のミュージシャンを目指して、あるいは未来の作家先生を目指して、日夜肉体労働に励んでいる。定職につかず、自分の時間を確保し創作に励むために。
だが彼らの思いの強さ(それは他人には判らないことだが)や実力とは別に、彼らの顔はちょっとぞっとするぐらいにくたびれ切っていて、磨耗しているように僕には見えてならない。生産性の薄い単純労働と、そのような作業に何十年も従事してきた年配者たちとのあまり刺激も発展性もない人間関係のなかで本来流動的であるはずの成長可能性は硬直化し、少しずつ自身の社会的価値を毀損し、気がつけばむやみに年だけを重ねてその単純作業の中でだけセミプロと化している自分に気がつく。そういう人たちが結構いるように思える。誰しもが中上健次高橋源一郎のようになれるわけではないのだ。
それに対して何か言えるというわけでもない。ルネサンスの頃を思い出すまでもなく、昔からクリエイティブがパトロンを必要としていたことを思えば、クリエイティブを目指す者の未来とは成功者になるか乞食になるかのどちらかということかもしれない(当然ババを掴む可能性のほうが高いわけだが)。それを良しとするのならばクリエイティブを目指すこともありだと思うが、果たしてタコツボ化した日常に生きる若者たちの元に華やかなサクセスストーリーと共にそういった現実が届いているのかどうかわからない。またババを掴むことが実際にどういうことなのか、リアルに想像できているとも思わない。
結局は、そのような人たちにとって自己評価の下方修正は、長い時間をかけて自分の可能性を毀損することによって初めて実現可能なことなのかもしれないが、そのときにはすでに、かつて自分が有していた潜在能力さえも損なってしまっていることを思うとかなり暗澹とした気持ちにはなる。またそのような現実に気がついたときに、自我理想と現実のギャップに耐え切れずニートやひきこもりを選ぶようになるのかもしれない。

*1:そう言えば最近やたら深夜帯で登録制バイトのテレビCMが増えているのが気になる。「グ○ド・ウィル」とか「はた○こ・ねっと」とか。まああの時間帯にバンバンCMを流すのは、明らかにその方面の方々に効果ありと見てるからなんだろうけど、これだけ社会格差とかが言われている時代にテレビCMを使ってその方面の人たちを誘い込むのはどうなのかと。ついでに言えばそのグ○ド・ウィルのCMの、「名前覚えてもらうのって気持ちいい〜」って台詞、あれが登録制バイトの現実をリアルに告げてると思う。所詮はその日限りの使い捨ての人足。よくあるのが名前じゃなくて「おい、そこの○○(←この○○にはその人が登録している派遣会社の名前が入る」って呼ばれること。そんな現実をあのCMは教えてくれているわけだ