巡るめく時の中で無数のドンキホーテ

前回のエントリー(「自己処罰のスパイラル」)は前々回のエントリー(「ある都市遊民の肖像」)に続き、『宿命を越えて、自己を越えて』を読んで思ったことを敷衍して書きました。
「ある都市遊民の肖像」にも書いたことですが、彼の日記を読んで僕がまず驚いたのはそこに書き記された内容が僕の思考と驚くほど似ていたことでした。彼の日記を読んでいるとまるで自分の日記を読んでいるような気さえなりましたし、多分、彼と僕のオフラインの日記のある部分(それは大半の部分)をランダムに入れ替えてもほとんど異同なく読めてしまうだろうと思います。また、彼の日記を読んだ僕は年甲斐もなく「俺も俺も!俺もそうなんだよ!」と叫び出しそうでした。
ですがそれ以上に私を惹きつけ、前々から抱いていた印象に確信を与えることになったのは、僕と同じように彼の日記の中に自分と同じ姿を見出した人たちがコメント欄やトラックバックに残しているシンパシーや驚きの言葉でした。
以前から僕は自分の葛藤や価値観や感受性が極めてありふれたものであることを機会あるごとに感じていたのですが、今回の彼の日記やそこに寄せられたコメントを読んでいると、彼や僕が持っている葛藤や自己嫌悪は決して特殊でもなんでもなく、少なくない人たちが持ってるものなのだと思わざるを得ませんでした。これが別の場合ならば、特権化したい自分の感受性が極めて凡庸なものであることをにべもなく教えてくれる類似だったかもしれず、また自分の情熱や能力がどの程度なのかという現実を突きつける差異のない肖像だったかもしれず、今回はたまたま心の葛藤がまるで鏡を見るようにそこに描かれていたというわけです。少なくとも、こういう考え方をする人はいつの時代にもいただろうし、これからもいるだろうと。
finalvent氏は彼のブログの中でこう仰っていました。

 いい文章だと思う。ただ、文を見るに。
 もちろん、陳腐な内容ともいえるし、現代の子もこう思うのかという時代の変わりなさに、ある種こころ打たれる。

 私もなぜ生んだのかと親を呪ったクチである。
 父親はそれに死をもって答え、母親は老いをもって答えた、と思う。答えがでるには、自分が老いと死の領域に少し足を突っ込むまでかかる。
 父は凡庸な人間だった。私や彼の友人たちの記憶から消えるとき、世界は彼を忘れるだろう。そうした何十億の人とまった同じように。そして、私もまた、同じように、凡庸に、そして、静かに、そう遠くもない時にこの世から消えていく。
 人というのはそうしてこの世に現れ、消えていくものである。

かのfinalvent氏をして「言うまでもなく… 私もなぜ生んだのかと親を呪ったクチである」と言わしめるものなのであれば、いわんや僕がこのありふれた葛藤から逃れるべくもなかったと思わずにはいられませんが、ただそこでひとつの疑問が生じます。素直であるがゆえに他者と自己の過剰な期待を一身に背負い、その結果増幅された向上心とその期待値に一致しない現実の狭間で葛藤し、やがて適わぬ想いがあたかも暴走する自我理想を殺そうとするように、デフォルメされた他人の視線や批判をも援用して自己処罰に走る人間が昔からいて、生まれてきた意味に悩み、苦悩を続けてきたのならば、どうしてそこから生き延びた者たちの経験則が若き迷い子たちに受け継がれていないのか。
もちろんまったく受け継がれていないわけではなく、ある人はそんなことを考える必要もなく、またある人は素晴らしい先達に出会いその教えを学び救われていることでしょう。しかし一方で、そういう不毛とも見える繰り返しは、「生きることの意味、目的はその人自身が生きていく中で見つけるものだ」という言葉や、「そういうことは自分で学んでいくしかない」という世間のありふれた言葉が示す通りなのかもしれず、だとすれば、僕が舌足らずに語る自己処罰についての拙い意見や、「宿命を超えて、自己を越えて」を借りて「若い」苦悩についての考察とカミングアウトを書き記すことに意味はあるのか。
実際のところ、そういうことは眉をひそめて小難しく考えていても栓のないことだよ、とにかく世間に出て、そこで厳しい荒波に洗われて、時に承服できないみじめな自分と折り合いをつけ、その中で成長し、やがて大切なものを見つけて生きる意味を見出していくのだよ、という人はいるでしょうし、それは確かに、生き延びた誰かが自分の人生の中で得たノウハウであり、それゆえにひとつの真実なのでしょう。
さらには、こうも考えることができます。経験談とは本来極めて個別的なものであり、極論すればそれはその人にしか当てはめることのできないものであり、たとえそれを教わったところでその教わった彼は彼自身のやり方をまたいちから探していくしかないと。したがってやはりそのノウハウは人から教わるものではなく、ただ自分で見つけて生き延びるしかないのではないか、やはり言ってもしょうがない当たり前のことを、傍目も気にせず、舌足らずの訛りで僕は捲くし立てているだけなのか。
ですが、例えば、世間で言うところの「自分に厳しく」と自己処罰というのはまったく別物だと思うのですが、自己処罰というものが外から見えにくい所為か、こういったことを教えてくれる人は少ないように思いますし、自己処罰などさほど深刻な問題ではないからか、巷にはやたらに「自分に厳しく」と煽る言説で溢れているようにも感じます。もしかすると「自己処罰と自分に厳しくすることは何が違うのか」という、いかにも説教臭い話を敬遠するだけのセンスを大半の人が持ち合わせているのかもしれませんが、では、こういうことをブログに書く意味はあるか。誰かに伝える意味はあるか。それこそチラシの裏にでも書いて・・・。
それに対する明確な答えはありませんが、前回のエントリーに頂いたコメントのように、もしも言うことで少しでも意味が生まれるのならば、誰かにとって役に立つのならば、未熟でも声を発するべきかなとも思います。そういう意味で、正直本当に嬉しかったんです。
そしてそう考えることのできる野放図さ厚顔無恥さ加減は、自己処罰や生まれてきた意味や許しがたい自分を笑い飛ばしてしたたかに生きていくための厚かましさと通じるものがあるのではないかとも思います。遥か昔から音もなく回り続ける風車に向かって奇声を上げて突進してもいいんじゃないでしょうか。それともやっぱり虚しいだけでしょうか?