“努力による回復”

 SOUL for SALE 「97年の輪廻」
 ドキッとした。というのもまさしく僕は鈴木さんの4つ下で、僕の口癖は「努力すれば夢は叶う」で、僕が世間の人々に対して思っていることは「何でも世の中のせいにするのはムカつく、何もしない自分が悪いんじゃん」だからだ。

90年代の後半になる頃から、ちょうどいっこ下の連中を境にして、「努力すれば夢は叶う」とか「何でも世の中のせいにするのはムカつく、何もしない自分が悪いんじゃん」といったことを言い放つ子がえらく増えてきた、というのを、大学の真ん中くらいの時から感じるようになって、すごく戸惑っていた。

 実際にはもちろんそれだけではないこと、つまり「努力しても夢が叶わない」場合があることは知っているし、自分がその底抜けの明るさを現実問題どこまで忠実に実行できているのかと問われると唸ってしまうけれど、それが自分の人生の行動原理として深く根付いていることもまた否めない。人や世間を非難して腐る前に、まずはやれることがあるだろうと。
 ただそういった人たちの中にも、その底抜けの明るさを何の疑いもなく実行している人もいれば、むしろそのような姿勢を「努力しても叶わない夢もある」「何をしても変えられない現実もある」という、人生の歩みを止めてしまいかねない絶望に絡みとられることを防ぐために採用している人もいて、僕自身は後者だと思っている。前者は主体の強度が強く、後者は弱い場合と分けることができるかもしれない。鈴木さんの戸惑いはどちらのタイプの人々に向けられているのだろう。
 また、うがった見方かもしれないけれど、「何でも世の中のせいにするのはムカつく、何もしない自分が悪いんじゃん」というスタンスはともすると問題を必要以上に個人に囲い込むことになりかねず、そのようにして物事の責任を実際以上に引き受けようとする姿勢には、以前このブログで書いた「自己処罰」(参照「自己処罰のスパイラル」)と何か通底するものがあるような気がしてならない。それは自己処罰欲そのものではないにせよ、そこには自己に対する正当性を欠いた期待値の高さや超純水のように溶解度の高い透明な自我(という幻想?)があるのではないだろうか。そしてその飢餓感は鈴木さんが言う「97年的なもの、独立独歩、自己責任、都市の中の孤独、努力による回復」のうち、「努力による回復」という言葉にもっとも示唆されているように思う。
 と、ここまでは概ね鈴木さんの主張に納得する形で我田引水的に書いてきたのだけど、最後のパラグラフで仰っていることがよくわからなかった。

97年の回帰は、僕にしか見えていない幻なのかもしれないけど、どうにも僕には、文化の売られ方が間違っていたことに、ようやく気づいた20〜30代の人々が、自分たちの文法で売り物を作り始めた結果生じている出来事のように思えて仕方がない。

 「文化の売られ方が間違っていた」というのは97年以前、あるいは「2000年代前半の短絡」という理解でいいのだろうか。また、そのことに「ようやく気づいた20〜30代の人々」というのはいまその年代にいる人たちということでいいのだろうか。というのも、いまその年代にいる人たちというのは、ちょうど鈴木さんがいう97年ごろにそのような「97年的なもの」の中で育ち、それを行動原理としてその後の10年を生きてきたのではないかと思うからだ。だとすると、かつて彼らが慣れ親しんだ「97年的なもの」はどのようにして現れたのだろうという疑問が生まれる。また、文化の売られ方としてはすでにその97年時点で変化していたのではないのか。
 ちなみに「97年の回帰」とは昨今の時代錯誤的な、97年的な「努力や、革命のストーリー」の興隆のことだと理解しているのですが。
 お話をもう少し詳しくお聞かせ願えませんか?