食べられなかった手紙

シロヤギさんから届いたメール。

差出人: シロヤギさん
宛先: クロヤギさん
CC:
件名: 夜分遅くに
 失礼。返信しなくて良いよ。
 シロヤギの独り言→クロヤギさんは行き詰まったときどうする?うちはなんだか人に相談とかできなくて独りでもやっとするのだけど、たいてい良い結果は得られないのよさ。うまく生きられないなぁ。

クロヤギさんの返信。

差出人:クロヤギさん
宛先: シロヤギさん
CC:
件名: 問わず語り
 僕もあまり人に相談しないね。そもそも自分の現状を「行き詰った」と感じることがあまりないから、人に相談する機会が少ないのかもしれない。例外は君の彼氏のガゼルくんだけだよ。ガゼルくんにはわりと色々な話をするし、そのなかには相談事めいた話もあるからね。それでもそれは相談というよりも、いろんなことと絡めて話そのものを楽しむことのほうが多い気がするよ。ガゼルくん以外の人間に「相談」めいた話はしたことがないかな、ひょっとすると。
 もちろん、「うまく生きられているか」と訊かれれば答えはいつもNoだけど、「行き詰ったと感じているか」と訊かても、答えはやっぱりいつもNoなんだ。それは、優秀だからとか、洋々とした人生を送っているという意味ではなくて、頭が鈍くて、往々にして、自分が人生の袋小路を突き進んでいることに気づかないからなんだけどね。表面的には悲観的な人間に見られがちなんだけど、根本の部分で僕はある種致命的に楽天的というか。それともうひとつは、その行き詰った現状は誰かに決めてもらった結果としてあるのではなくて、自分で選んだものなんだという信念があるから、行き詰った現状には納得がいくし、納得した段階でそれは「行き詰った感じ」ではなくなっているというのもある。
 これはガゼルくんがよく知っているんだけど、僕は何かを決めるときはちゃんと自分で考えて納得した上で、自分で選び取りたい性格なんだよ。ただ頭がよくないから、その答えを見つけるのにたぶん人よりも時間がかかってる。自分でも、人の助言を素直に聞いていればもっと効率よく、もっとうまく人生を生きられるんだろうなとは思うけど、こればかりはしょうがない。それで損をすることも多いけど、何が大事かって、最終的に、自分が納得できるかどうかという気がするから。
 あとは、「行き詰る」にもいろんなレベルがあるからね。彼女との関係で行き詰っているのと、人生の進路で行き詰っているのと、勉強で行き詰っているのとでは問題の種類も違ってくるし、当然対処の仕方も変わってくるでしょう。
 僕がここまでメールで書いてきたことは「生きる」というレベルの話で、シロヤギさんがどのレベルの行き詰まりを感じているのかわからないから、ひょっとしたらこのメールはシロヤギさんにとってすごく大げさな話、あるいは的外れなメールになっている恐れはある。もらったメールの最後に「うまく生きられないなぁ」という一文があったから、シロヤギさんのいう「行き詰る」というのは人生の話かなと推察しているんだけど。

 結局のところ、最終的に、自分が自分の人生に何を優先して求めるかということになるんじゃないかな。つまり、自分にとって「うまく生きること」が大切なのか、「自分で納得できる生き方」が大切なのか。もちろんその両方ができればそれに越したことはないわけで、非凡な人、優秀な人、才能のある人は問題なく、もしかすると意識することさえなく、その両方をやり遂げてしまうけど、残念ながら僕には両方を同時に追求するだけの能力は与えられていなかった。いやそれは「与えられる」ものではなくて「自分で獲得するもの」かもしれないけれど、とにかく現状ではそのふたつを同時にやり遂げる能力は自分にはない。そしたらどちらがより大切かを見極めてそれを追求していくしかないと思うんだよ。僕にとっては「自分で納得できる生き方」のほうが大事だった。
 それから、うまく生きることができないなら、これはもう、悩み抜くしかないかなとも思うよ。僕の場合、仮にうまく生きることに専念したとしても、きっと途方もなく虚しい気持ちを抱えてしまい、いつかそれを爆発させてしまうと思うんだ。そんな人生は絶対にいやだ。
 たぶん人生は虚しいし、その度合いは違うにせよ、誰もが閉塞感を感じて生きていると思うんだ。一見「うまく生きている」ように見える人でもね。ましてや自分に素直な人や、まじめな人ならなおさらだろう。なぜならそれはどんな生き方をしても、人間が意識を持った瞬間から背負った宿命として、ついて回るものだから。つまり、心は自分はなぜ生きているのだろうと考え、生きる意味、いまここにいる意味を求めてしまうのに、本来自分が生まれてきたことに意味はないから、いつまでたっても心に虚しさが残ってしまう。
 人によってはその「もやっ」って気持ちをカラオケで熱唱したり、おいしいものを食べたり、お酒飲んで酔っ払ったり、服や貴金属やインテリアを買ったり、エステや旅行に行ったり、車を走らせたり、スポーツしたり、セックスしたりして解消しているけれど、それで完全に解消できるわけではなくて、一時的にその穴を充たしているに過ぎないんだ。すぐにまた「もやっ」としてくるし、だからそれを忘れさせてくれる逃避方法は気持ちいいと感じるし、人生において手放せないものになる。
 自分のなかの空洞に耐えるという意味では、宗教も同じだね。宗教はその空洞を名前のついた価値観で充たすことで不安を忘れさせてくれるから。いや、より正確には、その言葉にならない「もやっ」としたものに名前を与えることで、「不安」という目で見え、手で触れることのできる形あるものにして、その虚しさを耐えられるものに変えてくれると言ったほうがいいのかな。

  けどその熱から醒める一時、人は誰でもゾッとするほど寒々しい存在の無意味さと対面して、震えることさえできない真空地帯で自分が透明になる瞬間を感じているんじゃないかな?

 僕は、それから目を逸らしたくないんだ。それを忘れようとする行為はまるで「呆けている」ようで嫌なんだよ。一見、人一倍そういうのが好きなんだけど、それに没頭している最中でも、心のどこかで「いまやっていることに意味なんてない」と思ってしまう醒めた自分がいて、何かに心の底から没入することができないんだ。なら、いっそのこと、その「もやっ」とした気持ちから目をそらさずに向き合いたいと思うし、それが僕にとっての「納得できる生き方」なんだよね。それを追求している限り、うまい生き方ではないにせよ、「行き詰っている」とは感じないというか。
 余談だけど、君が好きな村上春樹という作家が一貫して描いてきたものは、そういう言葉にならない空洞の存在と、人はそれとどのように向き合っていくのかということだったんじゃないだろうか。