どうして人を殺してはいけないのか? (1)

 まだそんなことを言っているのか、ではある。僕も懐かしさに、また、その質問から感じるある種の自己完結さに眩暈に似た感覚を覚える。だが、数ヶ月前、久しぶりに会った年上の友人が真顔で僕に訊くのである。お前はこの問いに説得力を持った回答を示すことができるかと挑発されているようでもあった。「どうして人を殺してはいけないのか?」。
 この問いが挑発的に感じられた理由は、それが社会の自明性を否定するものだからというだけでなく、そう問いかける彼らの姿勢の内に、彼が自問自答の果てに見出した(と考えている)「それに対する絶対的な回答はない」という結論があらかじめ用意されているように感じたからかもしれない。回答のない問いを問う姿勢が挑発的に思えたのだろう。
 あの季節以降、それに対する回答は各所で述べられてきた。そのなかには、概ね説得力を持っていると思える回答も提出されていたし、その半分ぐらいは正論として受け入れてもいいと思えるものだった。それにも関わらず、「どうして人を殺してはいけないのか?」と問う人々にそれらの回答が本当に説得力を有していたかというと僕は疑わしいんじゃないかと思う。たとえば、大江健三郎をして「この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と言わしめたあの討論番組の青年のように。それまで自明と思われていた価値観や正論的な回答ではなぜ彼らには届かないのだろうか。
 先に挙げた、あらかじめ回答はないという回答を用意して質問する人々の姿勢に表れているのだが、その理由を僕は自意識の外に彼らの意識が働いていないからだと考える。「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに自意識内のロジックだけで答えることはできない。なぜならその命題がすでに他者との関係のなかでしか考えることのできない問題だからだ。そして自意識の内側に留まっている人間にその問いに対する回答の本質的な部分(他者との関係性)が通じないのは、他者への想像力が欠如しているからというよりも、その想像力を培う他者との経験が不足しているからだ。
 だから僕は、先の大江健三郎の言葉とは逆に、自意識が拡張し社会と自己の関係を再構築している最中の思春期の子供たちからこのような問いが発せられるのは至極当然なことだと思う。また、部屋に閉じこもり他者との関係が希薄になった人間にもその可能性はあると思う。というよりも、この意識の内と外のバランスがとれず、思考が自意識のロジックによって占められた人なら誰でもこの問いを発する可能性を持っているというべきだろう。
 どうして人を殺してはいけないのか? それは法律がそう定めているからだ。そして、法律とは共存のための合意を明文化したもののことだ。共存とは画一化された集合を意味せず、利害の対立する他者をも許容することである。重要なのは法律で決められていることではなく、なぜ法律というものがあるのかを考え、共存という視点に意識を働かせることだ。自分が生存するために、他者の生存を認める。誰かに不当に殺されないために、誰かを不当に殺さない。それだけのことであり、良心や残された家族や友人の悲しみといったものは、ある意味では人を殺してはいけないという主張を補強するための後付けの説明にすぎない。欲望する主体であるあなたが欲望し続けるためにあなたは誰かを殺さないのだ。(つづく)