自己処罰のスパイラル

自己処罰は麻薬のようなものだと僕は思っている。癖になるし一度ハマるとなかなか止めることができない。そして確実に自分を蝕んでいく。
自己処罰は快感を伴う。なぜならそれがストレスのはけ口になるからだ。そこには加害者である自分を安全圏に置いたまま相手を叩きのめすことができるという意味で、虐待と同じ心理がある。世の中でもっともたやすい批判対象は自分自身だ。対象が自分自身なら相手に反論されて歯痒い思いをする心配もない。好きなだけ相手を叩けるし、それがどれだけ過酷であろうと相手は逃げない。逃げないだけでなく相手が苦しむ様も流した血もすべてを100%感じることができる。しかも加害者である自分の罪を問われることはなく、被害者である自分を擁護する公平なジャッジは期待できない。望むだけ相手をいたぶって溜飲を下げることができる、最も容易で最も効果の高い虐待、それが自己処罰だ。
また自己処罰は、批判することで一定の達成感を得ることができる。現状は何も変わっていないとしても、問題点を把握し指摘できているという認識は物事の進展であるかのような錯覚を与える。それはいたらない自分、不甲斐ない自分に耐えられない彼が退避することのできる束の間の安息の地として働く。
だがその行為の道程にあるのは、ただ自信を失い脆くなっていく自分だけだ。自己処罰は麻薬常用者と同じように外見さえも変えてしまう。顔からは自信が失せて、挙動が儘ならなくなり、他人に対して劣等感を抱き、そのことが一層自分を苛立たせまた自己処罰を繰り返す。
一方で自己処罰をしたがる人ほど、心のどこかで自分の賢さ、優秀さ、才能を認めたがっているとも思う。信じたいのだ。信じるべき自分を見出したいのだ。だからこそ徹底的に自分を否定する。自分の身体的特徴、癖、成績、現状、など思いつく限りの欠点を挙げて自分を粉々に打ち砕く。ときにそれは血統を遡り、自分の生みの親にまで向けられる。優生学を持ち出し、彼らの欠点を列挙し、己の劣等性をやっきになって正当化しようとする。それは自身を徹底的に総括し粛清しそれでも残る何かを期待している行為のように見える。
そして問題は、自己というものを自らの意志で傷つけるときそこに深い無力感とともに微かな疼きを覚えることだ。自分を切りつければ甘い蜜が流れる。それは自己憐憫という中毒性を持った蜜だ。自己憐憫は多幸感ではなく不幸の発見によって一時的に思考を麻痺させてくれる。自己憐憫は羊水のようにぬるくて優しい。だけども問題なのは、再びその蜜を求めるとき、彼らは前より一層深く、より苛烈に自分を傷つけなければならない。そしてそこには必ず切り刻まれ粉々になる自分がいる。
だとすれば、こんな行為に何の意味がるだろう。まったく無力で、あまりに悲しい。自己処罰は麻薬と同じように、本当に危険なことなんだ。
だから僕らは自己処罰をいますぐ止めなければならない。努力や精進や更正や修正や改善が苦痛を伴う困難な行為であっても、自己処罰を止めてみることから始まるものはあるはずだ。僕はそう信じている。まずは自己処罰の恐さを認識することから始めてみないか?