世界は広くておもろい小説も数限りなし…だといいなぁ

 煙か土か食い物 (講談社ノベルス)最近魅力的な小説に出会う機会が増えていて誰にでもないけど感謝している日々。謝々。
新春早々『家畜人ヤプー』と『オブローモフ』と『アンナ・カレーニナ』で頭の芯までずっしり重くなったあとに『ぼくは始祖鳥になりたい』を無難にスルーして辿り着いたのが舞城王太郎熊の場所』と『Smoke, Soil or Sacrifices 煙か土か食い物』だった。「遅せぇーよ」とかなしで、いやマジいいよ、うん。熊の場所
小説のなかでもその名が挙がっているので読んだことのある人なら誰でも連想していることだろうけど、『煙か土か食い物』のラストはどうみてもやっぱり『ノルウェイの森』を思い出す。
福井県の山間で、血縁をめぐる暴力の神話をくぐりぬけた四郎は真理に電話をかける。

「今すぐ友達に電話して交代してもらうわ。貸しがあるで大丈夫なんや。あんた、どこにいるんや今」
「俺か?」。言われて見渡す。どこやここ。
ミドルオブサムウェア。

一方村上春樹の『ノルウェイの森』では、

それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?(中略)僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。

となる。
これがパクリだからダメだとかオマージュだから許すとかそれで作品が駄目になるとか、そういったことは一切関係ないし、それに、僕が知らないだけで、すでにこの小説が出てから言われつくしていることだろうと思う。それにもっと重要なことは、87年の『ノルウェイの森』から01年の『煙か…』への変遷のなかで「どこでもない場所」の意味も大きく変わっているということだ。それはこの2つの小説を読み比べてみればわかる。どっちがいいとか関係なく。
それから「暴力」や「蔵」や「血族」「田舎」というアイテムに、この本を読んでいるあいだ何回も、昔読んだ大江健三郎中上健次の小説のイメージが目に浮かんでは消えていった。この小説のそれらはミステリという体裁のためか、も少しポップな感じだけど。けど悪くない。