知の巨人逝く

Jacques Derrida

衝撃が走りました。知の巨人がまたひとり他界しました。世界に残された者のひとりとして、少なからぬ不安を感じるのは私だけではないはず。ご冥福をお祈りします。
遅いって? だって今朝までずうっーと呑んだくれてたんだもん(汗)


そういえば、日本で中上健次が死んだとき誰かが次のようなことを言っていました。


「彼が死んだことで、重石がやっとなくなった気がする」


その言葉を、デリダの死去を告げるニュースを目にして、ふっと思い出したのです。彼がいなくなったことで、どこかで誰かがホッと肩の力を抜いたのではないかと。
誤解のないよう断っておけば、これは中上の文学者としての才能を惜しみなく賛美する文脈のなかで使われていた言葉です。
ただこれをどこで目にしたのか、どうしても思い出すことができません。もしご存知の方がいればぜひコメントしてください。
追記(04/10/17)
この言葉のソースを思い出しました。村上龍の対談集『存在の耐えがたきサルサ』のなかで柄谷行人が語っていた言葉でした。しかもまったく不正確な引用をしてしまいました。お詫び申し上げます。

村上 やっぱり、中上さんが死ぬとき何を考えたかなと、こういうとまた泣きそうになっちゃうのだけど、もっと書きたかっただろうなあと思ったんです。
柄谷 そうですね。
村上 もっともっと書きたかっただろうなあと思って、それを思うとほんとうに泣きそうになっちゃうんだけど。中上さんのことでそういうふうに考えると、妙な追悼文なんて書く気にならないし、いつも中上さんが監視しているような、見張っているような感じで、へたなことはできないと。弱っているときとか、もっと書きたかっただろう。そういう人が書けなかったんだから、僕の場合はなんだかんだ言っても書けるわけで、そんなときに嘘書いたりなんかしちゃいけないと思うんです。
柄谷 うーん、そうか。あなたの中ではそういう形で残っているけど、それはむしろ例外的ですね。僕が最近感じるのは、一つの重石が取れたというふうにみんなが思っているんじゃないかということです。中上の場合と意味は違うけれど、例えば三島由紀夫が死んだとき、やっぱりみんなだらけましたね。どんな形であれ三島がいることで、物書きは緊張していた。フランスでも、フーコーが死ぬと完全にだらけてしまった。中上が死んでも自分を見張っていると思っている人はわずかじゃないですか。





追記end



それにしても。どうしてこの哲学者はこんなにもシブイんでしょうか。この図が良すぎるのかもしれないけれど、なんというかこのエントリだけ他にはない気品が漂っているような気がシマス

「仏哲学者のジャック・デリダさん死去」(朝日新聞)


火ここになき灰 滞留 (ポイエーシス叢書 (45)) ニーチェは、今日? (ちくま学芸文庫) ポジシオン 法の力 (叢書・ウニベルシタス) コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)


デリダ氏書籍