公開メモ

最後にブログを書いてから、ずいぶんとあいだが空いてしまった。言い訳がましいが、ブログに対して興味を失くしていたわけではない。その間ずっとひとつのテーマが僕の思考の中心を占めていて、それをうまく言葉にすることができなかったのだ。毎日エントリーの下書きの下書きのようなものを書いては、それを形にできず、屍骸だけが増えていった。書けない理由は情報が圧倒的に不足しているからだ。
かといって何か適当なことをいい加減に書くこともしたくなかった。が、これ以上ブログを休止するとブログに書かなくなる恐れもある。そこで苦し紛れにいま考えていることを箇条書きにして公開することにした。最近僕はこんなことを考えている。

  • 社会と<欲望>について
  • 村上龍の小説と<欲望>について
  • ニートやひきこもりの問題と<欲望>について
  • <欲望>と<萌え>はどう違うのか、あるいは違わないのか(2005/5/13追記)

ジョギングを続けるコツ

最近、夜、走るのが日課になっている。エクササイズのためというよりもストレス解消のためだ。それ以外にもいくつか卑小な打算があるのだけどそんなことはどうでもいい。考え事ができるペースで走り、ぼんやりと物思いに耽るのだ。今日は走っている最中に、「どうすればジョギングを続けることができるのか?」という問題を考えてた。
本来この問題は、体を動かすことに犬的な喜びを覚える僕にはそれほど縁がないとも言える。部活動のように人から強制される運動には堪えられないが、僕は自分のペースでなら喜んで体を動かす人間だからだ。たとえばどこかに行くとき、時間に余裕があれば革靴でも平気で2,3キロは歩く。路線にもよるけれど、都内の私鉄なら大体2,3駅分が目安。そしてスニーカーならそれこそ狂ったように歩いている。踵でスニーカーのラバーの感触を確かめながら歩くのは実に愉快だ。そのうちに体が歩調にシンクロして、どこまででも歩けるような気になってくる。(もちろん体力が消耗されるにしたがってそういった心地よい気分は萎えてくるわけだけど)。新宿から調布まで歩いていたなんてこともある。
そこに、移りゆく街並みを楽しむためとか、行き交う人々を観察するためとか、新しい店を発見するためという意図はほとんどない。むしろ歩行中の視聴覚、嗅覚情報を右から左に流して物思いに耽っていることが多い。そもそも歩く速度が人よりもかなり速いうえに、傍から見れば一心不乱の様相で歩いているような人間にそんな風情などあろうはずがない。だからそれは決して「散歩」とか「徘徊」とかそういったものではない。話がそれた。
で、どうすればランニングを続けることができるのかだ。
それは、短めのコースと長めのコースの2種類を用意しておくこと。少し物足りないぐらいの距離と、少し長めのコースを決めて、その日の体調や予定、モチベーションに合わせて走りわける。僕の場合なら、短いコースは往復で4キロ、時間にして20分弱、長いコースは往復6キロ、時間にして30分強だ。
20分なんて、本当にあっという間だ。信じられないなら、出発する前にテレビをつけておくのがいいと思う。区切りのいい時間(8時とか9時とか10時とか)に出発すると、帰ってきてもまだ同じ番組をやっていて、普段何もせずテレビを見ている20分がとても同じ時間だとは信じられなくなるはずだ。それが30分番組なら、帰宅後のストレッチをしながらCMまでの最後の3,4分を見ることができるし、1時間ものなら「見逃した感」すらない。部屋に帰ってきても相変わらず古館伊知郎は「ニュースショー」を続けている。だから安心していい。
これなら時間がないときや前日の疲労が残っているときでも短いコースを走ることでランニングを継続することができ、嫌気がさして挫折するこもなく、継続する充実感を得ることもできる。ランニング・ジョギングが継続できなくて悩んでいる人はぜひ一度試していただきたい。

「難しい方を選択する人生」に必要なもの

「難しい方を選択する人生」。よく聞く話で自分もそうだなと思うのだが、少し考えてみると、わかるようでわからない。

布施さんが引用されていた養老孟司先生の一言。
「人生の分岐点で、先が見える選択肢と、
どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、
不確実な方を選びなさい」
布施さんを通して養老さんが降臨された
ところで第一回の授業は終わり。
難しい方を選択する人生を続けたいと思う。

たとえば就職活動期の学生はどうなのだろう。彼の前には就職するという選択肢と、就職しないという選択肢がある。一方には先が見える(ように思える)社員人生があり、もう一方にはどうなるか判らない(不安定な)フリーター人生がある。この場合に「不確実なほうを選びなさい」といえるだろうか。もちろんここでは、彼にとって就職活動をしないという選択肢は、現実からの逃避ではなく、企業に勤める以外にやりたいことがあるという積極的な理由によるものだと仮定する。
はたして彼に対して、「不確実なほうを選びなさい」といえるのだろうか。あるいは、この話と照らし合わせて、昨今の就職希望率の低下はどう考えればいいのだろうか。それは別に問題でも何でもないのだろうか。就職を希望しない学生たちの中で、積極的な理由により就職しない人間の割合は微々たるものだから、就職希望率の低下の問題とは切り離して考えていいのだろうか。
難しい方を選択する人生とは、要するに「リスクテイク」のひと言に尽きるだろう。リスクをとって、それによって得られるベネフィットを積極的に狙っていこうよと、そういうことだろう。そういった積極性が世の中を活発なものにしていくであろうことは疑わない。リスクを避け、事業を縮小し、息を潜めて蹙んだ消極的な社会がどのようなものであったかを思い出せば、リスクテイクがいかに大切なことかもわかる。
ではリスクテイクに必要なものとは何か。それは綿密な分析と、そのリスクに見合った実力である。その過程を経て、それでも残る不確実さをとる決断を下すのは勇気かもしれないが、その過程なくしてリスクテイクをしようとすれば、それは単なる愚行、控えめに言っても蛮勇でしかないだろう。
当然のことだが、難しい方を選択する人生を生きるとき、それはリスクテイクのために個人の強度や能力を前提にしている。さらには、そのための努力やそれを持続するための強い動機・欲望、その結果としての成長可能性さえも前提に含んでいるだろう。
以上のようなことを考えると、とてもじゃないけど、ひと言で「不確かな方を選びなさい」とは言えないような気がする。たとえ茂木先生にはそれがあったとしても、社会にいる人すべてがそれを持っているわけではないからだ。それをひと言で言ってしまう養老さんは何を考えているのだろう。(←批判ではなくて疑問)。
こういったことは、「自分は難しい方を選択する人生を生きる」と表明することはできても、人に「そうしなさい」と勧めることは難しいのではないだろうか。リスクテイクするための分析と、リスクテイクできるだけの強度と能力がなければ、不確かな人生で袋小路に陥ったとき、彼の保険のない人生は非常に危ういものになる。そして不確かな人生には必ず袋小路がある。いまのフリーター人口のなかには、そのようにして非就職生活に足を踏み入れ、その中で成長可能性を毀損し、ひきこもり予備軍に片足を突っ込んでいる人たちがいると思う。
翻って先の就職活動期の学生の場合はどうだろうか。僕に言えることはせいぜい、「人生の分岐点で先が見える選択肢と、どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、<そのリスクと自分の資質、能力を十分考慮に入れたうえで>、不確実な方を選びなさい。時期尚早ならば、確かな道を選びなさい。ただそれでも、不確実な方を選ぶときの積極性だけはいつも忘れないように」ということぐらいだ。そこに歯切れのよさ、聞こえのよさはない。ただ、殊に人間の生き方を語るとき、標語的な言葉には思いもよらない落とし穴があるということを忘れてはいけないと思う。

Vertigo

えらいことになった。零細ブログの拙エントリーに複数の方からトラックバックを頂いた。なかには「ARTIFACT@ハテナ系」なんて名前も・・・・。おかげでカウンターが見たことない速さで回りだし、僕は目を回し、頭のなかでは中島みゆきが『時代』のサビをエンドレスで熱唱。トラックバックを寄せてくださった方、拙エントリーを読んでくださった方、本当にありがとうございます。
お恥ずかしいことですが、この半年間、ひたすらノイズばかりを書き綴った月、ノイズをカットしようとしてディスプレイの前で頭を捻りなかなか思うように更新できなかった月、苦し紛れにブログのレイアウトをいじり倒す日々などを経て、消えるか消えないかの瀬戸際で拙ブログを続けてきたにもかかわらず、あまりの零細ぶりにトラックバックを頂く機会はほとんどなく、したがって、今回のように自分のエントリーに対して複数の方からトラックバックを受けた場合、慣例としてどのように対応すばいいのかよくわからず、慌てて方々のブログを巡回してトラックバック作法を小一時間ほど復習した末に、いまこのようにして言い訳がましい書き出しとともに僕は語り始めようとしているのですが、巡回した結果、トラックバックを頂いた際は前置きはそこそこに、すべからく本題に入るべしと学んだ僕は、この時点ですでに失点を重ねているのかもしれません。いやはや。対応に不備がありましたら、どうぞお叱り下さるようお願い申し上げます。
拙エントリー「自己処罰のスパイラル」は、今年2月21日に切込隊長のエントリーをきっかけにしてネットを駆け巡ったある青年のウェブ日記を読み、そこで感じたことを敷衍して書いたものでした。僕は彼の日記に綴られた言葉のなかに自分との否定できない類似点を発見して驚き、またそこに寄せられたトラックバックやコメントのなかに、僕が感じたのと同じ驚きを表明している人たちの言葉を見つけ、一連のエントリーを書かずにはいられなかったのです。(関連エントリーはこちらこちら
「自己処罰」というのはid:kanoseさんが仰るように、確かに意味が把握しにくい言葉だったかもしれません。それに一般に「自己処罰」というと、リストカットやその他の自傷行為を思い浮かべる人が多いことも考慮に入れるべきでした。
ただ一方では、「自己批判」や「自己否定」という言葉にはすでに一定のイメージが定着していて、自分自身に向けられた憎悪や憐憫と共にある、その思考形態を繰り返させてしまう疼きのようなものを「自己批判」や「自己否定」という言葉ではうまく言い表せないような気がしました。批判や否定ではなく、「罰する」という行為のなかに含まれる快感のようなもの。それがこれらの感情と悪循環のなかで重要な意味を持っているように思えたため、僕はそんな心的所作を「自己処罰」と呼びました。
その違いは、わかりにくい例ですが、仮に人間の成長が弁証法的になされるものであるとすれば、自己批判や自己否定は反定立になり得ても、自己処罰は反定立になり得ず、ひたすら対象の成長可能性を毀損し続けるものと言えばいいか・・・。批判も否定も処罰も対象に対して異議を唱えるという点では一致していますが、その自己否定が何らかの目的になり罰することを求めるようになると、批判や否定という言葉では汲み取れない不穏さを帯びるような気がします。もちろんこういったことは言葉の問題ですので、ひとによって同じ言葉から受ける印象も違うでしょうし、あえて強弁するものではないです。
こうやって記事を書いてる間にも新たに多くの方が様々なリンク元から当ブログを参照してくださっており、改めてブログの凄さを実感しています。そのなかのひとつ、kosekiのブックマークで興味深いリンクを見つけました。「何もしない人ほど批評家になる」。id:kosekiさんがコメントで仰っているように、多くの点で拙稿と似ていると思います。というかこれを読むと、「自分は心理学では当たり前のことをもっともらしい顔をして書いてしまったのだな」と面映い気持ちにさえなります。もちろんすべてが同じというわけではありませんので(強いて違いを強調すれば、拙稿の前半部分、自己処罰という虐待性とそれゆえに常態化する点などはリンク先では述べられていないことかと(汗))、合わせてお読み頂くとよいかもしれません。
こういった発見はブログならではと言いますか、これまではてなのサービスを利用してきて、リンク元トラックバックなどの効果を、初めて感じています。また、寄せていただいたトラックバックに刺激される形で、自分が自己処罰について、どのようなものかを具体的にはまだほとんど述べていないのだなということも教えられました。というか、ここに至るまでに何度か説明を試みようと思ったのですが、どうも同語反復になってしまうというか、正直なところ、まだ考えがまとまりません。その点については、今回のように多くの方にいろいろご教授いただく形で考えていければと腰が引けたことを思っています。
かなり強引な幕引きですが、なにせアクセス数が300を超えるという常ならぬことに眩暈は止まず、うまく整理できないでいるのです。プレゼンで30人の前に立つのも足が震える人間ですから(爆)。したがって以上をもちまして、お礼とご挨拶を終えさせていただきたく思います。今後ともよろしくお願いします。

デザイン変更6回目

両手が必要になった。もう何も言うまい。そう何も・・・。
表題の背景画がミレーの晩鐘を思わせるって? えっ、そんなこと言ってない? そうですか。僕もそんなこと言ってませんよ。