「難しい方を選択する人生」に必要なもの

「難しい方を選択する人生」。よく聞く話で自分もそうだなと思うのだが、少し考えてみると、わかるようでわからない。

布施さんが引用されていた養老孟司先生の一言。
「人生の分岐点で、先が見える選択肢と、
どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、
不確実な方を選びなさい」
布施さんを通して養老さんが降臨された
ところで第一回の授業は終わり。
難しい方を選択する人生を続けたいと思う。

たとえば就職活動期の学生はどうなのだろう。彼の前には就職するという選択肢と、就職しないという選択肢がある。一方には先が見える(ように思える)社員人生があり、もう一方にはどうなるか判らない(不安定な)フリーター人生がある。この場合に「不確実なほうを選びなさい」といえるだろうか。もちろんここでは、彼にとって就職活動をしないという選択肢は、現実からの逃避ではなく、企業に勤める以外にやりたいことがあるという積極的な理由によるものだと仮定する。
はたして彼に対して、「不確実なほうを選びなさい」といえるのだろうか。あるいは、この話と照らし合わせて、昨今の就職希望率の低下はどう考えればいいのだろうか。それは別に問題でも何でもないのだろうか。就職を希望しない学生たちの中で、積極的な理由により就職しない人間の割合は微々たるものだから、就職希望率の低下の問題とは切り離して考えていいのだろうか。
難しい方を選択する人生とは、要するに「リスクテイク」のひと言に尽きるだろう。リスクをとって、それによって得られるベネフィットを積極的に狙っていこうよと、そういうことだろう。そういった積極性が世の中を活発なものにしていくであろうことは疑わない。リスクを避け、事業を縮小し、息を潜めて蹙んだ消極的な社会がどのようなものであったかを思い出せば、リスクテイクがいかに大切なことかもわかる。
ではリスクテイクに必要なものとは何か。それは綿密な分析と、そのリスクに見合った実力である。その過程を経て、それでも残る不確実さをとる決断を下すのは勇気かもしれないが、その過程なくしてリスクテイクをしようとすれば、それは単なる愚行、控えめに言っても蛮勇でしかないだろう。
当然のことだが、難しい方を選択する人生を生きるとき、それはリスクテイクのために個人の強度や能力を前提にしている。さらには、そのための努力やそれを持続するための強い動機・欲望、その結果としての成長可能性さえも前提に含んでいるだろう。
以上のようなことを考えると、とてもじゃないけど、ひと言で「不確かな方を選びなさい」とは言えないような気がする。たとえ茂木先生にはそれがあったとしても、社会にいる人すべてがそれを持っているわけではないからだ。それをひと言で言ってしまう養老さんは何を考えているのだろう。(←批判ではなくて疑問)。
こういったことは、「自分は難しい方を選択する人生を生きる」と表明することはできても、人に「そうしなさい」と勧めることは難しいのではないだろうか。リスクテイクするための分析と、リスクテイクできるだけの強度と能力がなければ、不確かな人生で袋小路に陥ったとき、彼の保険のない人生は非常に危ういものになる。そして不確かな人生には必ず袋小路がある。いまのフリーター人口のなかには、そのようにして非就職生活に足を踏み入れ、その中で成長可能性を毀損し、ひきこもり予備軍に片足を突っ込んでいる人たちがいると思う。
翻って先の就職活動期の学生の場合はどうだろうか。僕に言えることはせいぜい、「人生の分岐点で先が見える選択肢と、どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、<そのリスクと自分の資質、能力を十分考慮に入れたうえで>、不確実な方を選びなさい。時期尚早ならば、確かな道を選びなさい。ただそれでも、不確実な方を選ぶときの積極性だけはいつも忘れないように」ということぐらいだ。そこに歯切れのよさ、聞こえのよさはない。ただ、殊に人間の生き方を語るとき、標語的な言葉には思いもよらない落とし穴があるということを忘れてはいけないと思う。