大学はいま…

 昨日東京藝大の映像研究科映画専攻ことを書いたときに最近の大学について思いを馳せていたら、R30さんのところに「首都大学東京に思う、大学は何する所ぞ」(R30::マーケティング社会時評)という記事がアップされていた。で、TBやLinkをざっと眺めて木になるものをメモ。

 しかし、敢えて古くさいこと言うが、大学って、「効率」だけを求めて良いのだろうか。文学部に限らず、理系でもいわゆるなかなか結果が出ない「基礎科学」の分野が「効率」一辺倒の雰囲気の中で縮小していくのではないか、という危機感が持たれている。「象牙の塔」という批判はもちろん承知している。しかし、今現在「役に立つか立たないか」という超近視眼的なパースペクティブだけで全てを数量化して査定されてはたまらない、というのも本音だ。それは学問の死を意味する。大学が全て「効率」一辺倒で運営されるようになれば、文部科学省あたりが言っている「国際競争力のある日本の大学」は、逆に達成することは出来ないと僕は確信している。

では、大学とは何をするところなのか、言い換えれば「どういう目的を持って存在するのか」ということについては、正直言って、日本は今端境期に来ているんではないかと思う。
 元々日本の属する東アジア儒教文化圏というのは徹底的にプラグマティズムを重んじるので、「芸術」とか「学問」それ自体を敬い、慕うという考えはなかった。古代中国では天文学、測量術、代数学など実益的な学問が飛躍的な発展を遂げたが、古代ギリシアで最も重視された幾何学形式論理学、弁論術など「学問のための学問」みたいなものはほとんど進歩しなかった。また、芸術という点でも写実的な彫刻様式を完成させたギリシアに対し、中国にはインドから仏教と結びついた美術が導入されるまで、まともな芸術がなかった。
 日本も元々芸術なんてのは中国からの舶来芸術か、そうでなければ能、歌舞伎などの大衆芸能しかなかったのが、明治維新を迎えて西洋の学問体系を必死に輸入する中で、学問や芸術それ自体を権威の象徴として敬うべきという文化が一緒に持ち込まれたのである。
 西欧における学問観というのは、まさに貴族のそれであって、そのことはよく引き合いに出される言い方で言えば、school(学校)という単語の語源が、ラテンギリシャ語の「何もしない、ヒマである」を意味するskhole(スコレー)であるということからも推察できるというものだ。(中略)
 つまり、首都大問題で見えてくるのは、社会に実益をもたらさないものは何であれ一切不要という「儒教プラグマティズム」か、それともヒマを持て余す者だけが最高の教養を持つと信じる西欧的な「貴族的skhole至上主義」か、公的高等教育機関はどちらを目指すべきなのかという根本が揺らぐ、現代日本の知の構造そのものなのだ。

世間の皆様がいま背負っているリスクに対して、国立大学教員が背負っているそれは、何ほどのものか。いよいよ募集停止学部が出始めた、私立大学教職員が背負っているそれにすら比べて、何ほどのものか。私はまずそれが気にかかります。手厚い保護と引き換えに、私たちは何を供給するのか。学者のみの権利ではなく、国民の権利である「学問の自由」行使をアシストする公務員として、私たちは何を約束でき、法人化によってそのうち何が失われるのか。私たちが世間にアピールすべきは、まずそれではないかと思えてなりません。
 法人化反対のアピールが、別に間違ったことを言っているわけではありません。しかしそれは、1年前にも真実であったし、たぶん10年前にも真実であったことの繰り返しのように感じられます。大企業も危ない。銀行も危ない。国債はどうなるのか。そうした疑念の高まりに対して、私たちが付け加えるべきメッセージは何か。そこのところが空白なまま、現状を変更されることへの抗議にとどまっているために、世間との会話が成り立たず、一方的なメッセージ伝達になってしまっている。そう思えます。
 私たちも危ないが、世間も危ない。国庫も危ない。そこのところを私たちはどう考えているのか。どうしてゆくのか。そのコンセンサスを、少なくとも法人化が日程に上ったここ1年の間に、私たちは私たちの間で詰めておくべきではなかったのか。そう思えます。  本当に問題なのは、私たちが何をして欲しい(して欲しくない)かではなく、私たちに何ができるか、私たちが何をするかではないのか。

(5)経営という思想からすれば、当然のことながら大学をはじめとする組織運営は効率的に執り行われるであるべき。無駄なお金や労力は使わない。これに異論のあるひとにお目にかかったことがないので、了解されたものとする。そのことを素直に指摘したR30氏は至極まっとう。
(6)川瀬さんやshingさんはこの「まっとうな」意見にたいして、なぜ非効率的な側面が必要かを説明しなければならない。徹底的に言語化しなければならない。その過程において「非効率的である」という言い回しにこだわるのであれば「非効率的であることがいかに効率的であるか」ということを強調すべきであると考える。経営と進歩的な対話を進めるには、それしかない。
(7)「非効率的であることがいかに効率的であるか」という言い分は正確ではない。「経営的に非効率であることが学問的にいかに効率がいいか」が正しい。
(8)学問的に効率がいいことをどうやって証明するか・・・・・・そもそものコンテクストがことなる以上たぶん不可能である。学問そのものは経営的評価の対象にはならないってことは、逆にいえば経営という思想が学問を捉えきれないということでもある。その意味で学問は安心していい。
(9)しかし学問にまつわる諸要素(施設設備費・研究費・ポスト数・学生数・給与・学費・著作論文刊行数・身分の保障と社会的地位etc)は、経営的評価の対象になる。
(10)経営的評価の対象になる以上、これら諸要素は経営に引き渡されていくだろうと予測される。であるならば今後学問にまつわる諸要素を経営に引き渡す段階において、学問そのものを死守するための条件闘争に専念すべきである。学問そのものは死守されるべきである。クビ大の場合、学問そのものが守られていないのではないかという疑念が拭いきれないということが問題なのである。



(「大学が好きなんだからしょうがないじゃない」引用文中の赤文字・太文字はunvisによる加工です。)


■感想
 現在の大学の意義は大学の社会的意義とか学問の価値とかで語ってしまうと、実のところ語り手の個人的体験によってかなり左右される問題なのではないかと思う。つまり、彼/彼女がどのような大学時代を過ごした(ている)かによっていかようにも主張が変わりうるのではないかと。で、それが個人的である限り、実際の変化に対してその主張はほとんど意味を持たないのではないか。
 これは勝手な憶測だけど、そもそもネットやブログで見かけるこの手の議論はそれが既存大学変革熱歓迎社会貢献施与派であろうと既存大学持有益側面従擁護派であろうと、基本的には大卒以上の人が語っていることが多いんじゃないだろうかという印象を受ける。
 その上で、彼/彼女が大学時代に大学で教える学問のなかに楽しみを見出したかそれとも退屈で死にそうだったかという違いによって、「いまの大学の学問にも云々」「いまの大学に意味なんてねーよそれより社会貢献云々」という見方の違いに変わってゆくんじゃないか。
 個人的には、僕も大学が好きな人間のひとりだ。僕は大学で勉強を楽しんだし、少し大袈裟に言えば学問の愉悦というものを知った。何かを体系的に学ぶのは面白い。これは教養主義だという非難もあるかもしれないけれど、世界を頭の中に知識によって再構築することほど面白いことはそうないと思っている。知に対する欲望を満たすことができるかどうかという点で考えるなら、その機能はいまの大学にも十分備わっているし、その点で言えば、いまの大学にだって意義はある。
 で、こういったことはR30さんが言うように「『誰もそんなこと聞いてない』類の問い」であり、好きじゃない人にはどうでもいいというか、いまの大学に求められている変革にほとんど抵触しないものなのだろう。
 結局そういうのといま求められている変革は別の次元にあり、それはR30さんが言うように「そういう考え方を理解してくれるパトロンのいる場所に逃げ込」むことだったり、inuimonさんが言う「学問そのものを死守するための条件闘争」が必要なんだということになるのだろう。