欲望の低下

2005/5/11 下書き状態で放置していた記事を公開することにしました。
 色んな人生が眼の前をチラついて過ぎていきその度に浮気心がでて結局どれも選びとずに月日だけが過ぎていく。気がついたときには致命的に手遅れで、それでも自らの手で人生を終わらせることもできず、ただ年をとり死んでいくのを息を潜めるようにじっと待っている。外聞ももはや気にはならず、おのれの姿は自分が思うより惨めでずっと醜く他人の目に映っていることさえどうでもよくなる。いや、すでに自分で見限った自分の姿が他人にどう映ろうとも気になるはずもないということなのかも知れない。昔の光景がときどき脳裏をよぎっては消えていくが、彼らの目に眼の前の光景は映らない。さっさとくたばっちまうこと、それだけが彼らの唯一の願いなのだ。そして今日もまたひとつのかがり火が燻りながらひっそりと消えていく。
 社会は人間の欲望によって動いている。例えば、音楽を作りたい。絵を描きたい。服やインテリアを買いたい。名声を集めたい。車に乗りたい。小説を書きたい。サッカーがしたい。もっと速く移動したい。ケーキを作りたい。貧しい人々を助けたい。山に登りたい。いい男とやりたい。エイズの子供たちを救いたい。戦争の悲惨さを伝えたい。うまいビールが飲みたい。世界中を冒険したい。ゲームを作りたい。少女を犯したい。人を殺したい。ある人はそれをモチベーションと呼ぶかもしれない。呼び方はなんでもいいのだけど、とにかく、その総体がいま眼の前に広がっている社会だ。
 いまの日本の社会は比較的寛容にできている。そういった欲望はその公益性が認められれば許容され活動の継続が許される。貧しい絵描きがいて、彼が絵を描いているからという理由で逮捕されることはないし、きれいなねーちゃんと色艶のある話をすることも許されている。一方、弊害が認められれば罪として排除される。例えば殺人のように。けど善悪を度外視すれば、市民権を獲得する行為も罪として裁かれる行為も人間の欲望の結果だという点では一致している。
<欲望>とは、人間社会にとってのガソリンのようなもので、そのようにして今日まで築き上げられてきたものが人間社会であるならば、欲望や煩悩に嫌悪し、それを取り除こうとする人たちははたしてこの社会で生きていけるのだろうか。
 例えば、極力仕事をしないかわりに、生活費をギリギリまで切り下げて生きている人間はどうか。あるいは、パートナーを獲得するまでの困難な過程に挫折し、かわりに自分の性欲を押し殺すことで自分を納得させようとしている人間はどうか。
 こういうことを考えていると、僕はふとオウム真理教の人々のことを思い出し、こう思う。あそこに集った人々の大半はそのような〈欲望〉を原動力にしているいまの社会では生きていくことができずあの場所に辿り着いたのではなかっただろうか。あるいは、そういうものを敵視することで自らの存在をより神聖なものとみなす価値観に感化され、その結果があの忌まわしい一連の事件だったとしても、あの洗脳が彼らの純粋さゆえに起こったものだと糾弾されても、その動機であった社会との反目、つまり欲望への疑問は形を変えてニートやひきこもりや浮浪者のなかに受け継がれているのではないかと。