つつがなく過ぎゆく人生

昼過ぎに某IT企業で営業をしている大学時代の友人Uから晩御飯のお誘いメール。

19時上野駅。駅ビルアトレの本屋で本を物色していたUと合流、街にくりだす。

上野の街は相変わらず人が多く、雑多な雰囲気。モダンに整備された駅構内を出て通りを渡ると、軒先に商品をこれでもかというぐらいに積み上げた小さな店がJRの高架に沿って並ぶ、市のような繁華街に変わる。土曜日の夜とあって、狭い通りはサラリーマンや学生や浮浪者や三国人やキャバクラのキャッチで溢れかえっている。その熱気に押しやられるようにしてネオンの光の外でオフィスビルが眠る。寿司を食べよう、と言う彼に従いその歓楽街の路地裏を右に左に進む。どうやら目的の店があるようだ。どこに行くのか聞いても「行けばわかるよ」とのこと。

道すがらお互いの近況報告をする。といっても僕はもっぱら聞く側に。彼の話には昨今の日本のシビアなビジネスシーンで活躍する者の経験や技術が散りばめられていて何を聞いても勉強になる。ひと言で営業といっても彼の会社の営業は恐ろしく合理的だ。適切なタイムスケジュールを組み、取引先の社内力学をも含むさまざまな情報を仕入れ、契約までのシナリオを作り、その際に考えられるすべてのリスクを洗い出し、そのリスクを潰すための具体的な方法を考え、実行し、得られた情報をミーティングで共有する。口で言うと簡単だけど、それを実行するのは生半可なことではない。情報を手に入れるための取材力や交渉力(適切な話題を適切なタイミングで発する力、交渉の際に相手に伝える情報量をコントロールする力など)、それにもちろん豊富な知識などがあって初めてそれは実行可能になるものだからだ。本人は、「うちはベンチャーだからこれぐらいしないと生き残れない」と謙遜するけれど、その徹底した方法論の獲得は彼のブランド力に直結し、彼の価値を高めている。もちろん彼のような(そして彼以上の)営業マンを抱える彼の会社は順調に業績を伸ばしている。

「おこのみ寿司」の前にはすでに10人前後の人がいて、ガラス張りの引き戸の向こうの狭いカウンターの様子を眺めて並んでいた。築地の寿司屋風の、無造作な狭い店内の造りはネタ勝負という感じで期待が持てる。そして「行けばわかるよ」というUの言葉は店の看板に書かれた文字を見て納得。「毎週土曜日半額」。握り寿司で、土曜日の夜で、半額ですか!

待っているあいだに会社の給与制度について話を聞く。彼の会社の給与制度は年俸制だと思っていたのだが、年俸制ではなく「裁量労働制」だと訂正を受ける。裁量労働制とは、勤務の管理の軸を勤務時間ではなく実績評価に置き、職務の遂行手段及び時間配分の決定等を社員にゆだねる成果主義の給与制度のひとつとのこと。この制度の問題は、近頃ニュースにもなっているけれど、実際の労働時間に関係なく、労資であらかじめ合意した時間を働いたものとみなして賃金を支払う仕組みであるため、どれだけ残業時間が増えても残業代が支払われない点。個人の能力に裁量を求めるといえば聞こえはいいが、実際には優秀な彼であっても遅くまで残業をしなければこなせないだけの仕事量を抱えている。けれどもいまこの制度を導入する企業は増えている。

20分ほど待って、通り沿いのカウンターではなく奥のやや広めの店内に案内される。すぐに生ビールを注文、待ってましたの瞬間の到来である。出されたビールを一息で半分ほど飲み干して、まぐろとサーモンを注文。Uはサンマと関サバ。「あっ、関サバ!」「あっ、サンマ!」と、先を越された思いで軽い嫉妬心を覚え、無難なところから始めてしまったおのれの才覚に悪態をつくが、マグロを頬張ってすぐに平常心を取り戻す(笑)。続いて大トロとサンマを注文。大トロが口の中で溶ける。生姜ののったサンマが食欲をかき立てる。

食事中の話題ももっぱら彼の仕事について。彼とは大学卒業後も定期的に食事をし、酒を交わす仲だけど(そして毎回ご馳走になっている!)、会うたびに成長していて驚かされる。今回もそのことを強く感じた。彼の社会的評価を示す客観的なデータである年収がそのことを裏付ける。裁量労働制のもと膨大な残業をこなしている現実があるにせよ、すでにそれは同世代の平均を超えている。カウンターに並んで僕と話している彼は、やたらに酒を飲み酔っ払うと手がつけられなくなる大学生ではなく、高い能力を求められる職場でもうすぐ一人前になろうとしているひとりの社会人であることをいまさらながら実感する。

生姜に刺激されたとどまることを知らない僕の食欲も、カジキ、イワシ、エンガワを続けて注文し、その後アジ、エンガワ、ギョクなどを食し、瓶ビールを一本飲み乾したころにはどうにか沈静化される。というか、少々喰いすぎ。最後は少し前かがみになりながらお店をあとにした。

腹ごなしのために上野公園内の不忍池を一周する。喫煙者コミュニティの有用性についていい加減な議論をする。実際は、喫煙者のコミュニティがどれほど有効かを問う与太話。喫煙所でタバコを吸うことによって、普段なら接する機会のないほかの部署の人間と接点が生まれ、そこから得る情報が時に有益である、とUが経験に基づく雑感を披露。それに対しては、ウーム、されども昨今の非喫煙者増加傾向を鑑みるに、左様な可能性より、非喫煙者との接触可能性を損うデメリットのほうが大きいのではなかろうかいやどうだろうか、と反証する。話は結論のでないまま収束。ちょうど池の周りを一周したところで駅に向かう。

帰りの電車のなかで僕が考えていたこと。それは誰かと誰かが友人であるということ。僕とUは友人だ。それも、かつて同じ時間や経験を共有し、同じ食事を食べ、似た感性を持つかなり親しい友人だと言える。けれども、そうであっても、それは能力の対等さを意味しない。自分の友人が有能だからといってそれは自分が彼と同じぐらい有能であることを意味しない。少なくとも「類」と「友」は必ず一致するわけではない。こんなことは当たり前だ。けど、では友人同士を結びつける力とはいったい何なのだろうかと考えると、それはよくわからない。僕は彼から多くのものを得ているけれど、はたして自分は彼に何かを与えることができているだろうか。もしかすると僕はこうやって彼の大切な時間を損なっているのではないか。そんなことを考えていると、つり革につかまって彼の話を聞きながら、僕は少し後ろめたいような気持ちになった。

「もう一杯どう?」と誘うUのお誘いを断って僕が家に帰ることにしたのはそんな理由があったのかもしれない。