人間の能力 ―デザイン変更9回目―

ある都市遊民の肖像デザイン008 -Grace Under Pressure- 何かをデザインするのって本当に難しいものだと思います。実はどんなものでも、何かを創る作業というのはそうなのでしょうけれども、無限とも思える選択肢の中から有限個の要素を選びだして組み合わせ、ひとつの統合された外観を造るわけですから、それらのうちのたったひとつが、全体からみて、わずかに均整を欠いたものであるだけで(しかも往々にしてそれ自体は素晴らしい出来であったりする)、細部の完成度の高さは失われ、観るに耐えない出来損ないが出現するなんてことがよくあるわけです。完成された個々の組み合わせが完璧な全体を意味しない。しかも、その完璧な調和を生み出す選択肢は、遥か彼方にではなく、すぐ隣にあったりするわけですから、これはいったい何なのだろうと思わないわけにはいきません。そこには意志やコンセプトとは別の、「黄金比」とでも呼ぶしかないようなものがあるような気がします。
 こういった、細部の組み合わせを素晴らしい全体へと昇華させるバランスを発見する能力は、もちろん狭義のデザインだけに限らず、企業のパフォーマンスや小説の出来、映画や美術、音楽などあらゆる分野で見ることができるわけです。社内の人材の組み合わせをデザインする管理職、言葉の組み合わせをデザインする作家、音をデザインする音楽家、身体の機能を組み合わせ高いパフォーマンスを発揮するアスリートなど。そういった能力を持った人たちのことを人はただ「才能がある」というひと言で表してしまいがちですが、線条的に細部を組み合わせていくだけでは決してたどり着くことのできない彼岸に跳躍するその能力は、たしかにそれ以上言い表す言葉が見つからないような未知の領域を含んでいるようにも思います。それが、科学が進み機械が人間の作業を高度に補助するような時代になっても、いまだ機械が勝ち取ることの出来ない人間の能力であるとするならば、なおさら人間である自分もそんな能力を身につけたいものだと強く思うわけです。
 今回は作業をしながらそんなことを考えていました。

アカルイチカラ

正しいことがしたいんだ
お天道様に顔向けできるよう。
そして何よりも、愉しみたいんだ、この人生を。
深い悲しみや激しい憎しみに身を焦がしても
無力感に心が砕けても
それでも身もだえするような幸せに、腹の底から笑いたい。

それは不可能なことだろうか?
僕はそうは思わない。

悲しみや憎しみは世界からあなたを隔離する。
喜びは、世界とあなたをひとつにする。

だから、心の暗がりに棲む卑小なあいつは今日の日差しに虫干しして・・・

シャンペンだけが人生か

 情報もお金も溜め込むだけでは意味がない。というよりも、流れから囲い込んだそれらはもはや淀んでしまいその価値を失ってしまう。流れの中に身を置き、自分の上や下や内側を通過させてまた別のところへ流すことで初めてその価値は発揮されるものなのだ、情報やお金って。大事なことはその水量を増やすことであって、どれだけため込んだかではないのだな。ということを痛感する日々。言ってみれば水力発電のようなもので、流れる水が情報やお金で、そこで発電される電力が人間の活力やバイタリティになるというか。「シャンペンみたいにきらきらした人生」というのはきっとそういうことなんじゃないかと思う。生きていない情報のなかで頭を抱えていてもしょうがないよ。

デザイン変更8回目

ある都市遊民の肖像デザイン008 -Grace Under Pressure- 7回目のデザインがどうにもしっくりこなくて、色々いじっているうちにわけがわからなくなってしまい、どこの部分が気に入っていてどこの部分が不満なのか、それさえわからなくなって、ただなんとなくお気に入りだったh1の背景画像が全体のバランスをちぐはぐな印象を与えるものにしているらしいと感ずいてはいたものの、捨てるに捨てられず、なんとかその部分を生かしたデザインにできないかと騙しだまし手を加えて、それはまるで不毛感漂う袋小路をそれとわかっていて突き進んでいくようなもので、一層混乱に拍車をかけ、最終的にh1の背景画像は使わないという苦渋の選択の末、その悲しみが影響したのか、こうなったらbodyの外側も白でいこうじゃないかヘヘヘヘとやけっぱちになって今回のデザインが出来上がった。なんだかなぁ。

“あなたもやはり知るべきだ"

 議論は自分の主張で相手を説得するお節介行為の応酬の場だろうか? あるいは、人の価値観はそれぞれなのだから、自分の考えを主張する議論という行為は独善的で必要のないものなのだろうか? そう問いかけるのは、「お節介な」若者たちが集うテレビ番組『真剣10代しゃべり場』のディレクター、小沢倫太郎さんだ。以前このブログで取り上げた「Mammo.tv〜考える高校生のためのサイト〜」で見つけた。「人それぞれだから」という一見物分りのいい常套句が、実は煙たがられる自己主張以上に独善的なのではないかということを、現場での経験から少しずつ変わっていったご自身の体験を踏まえて説明されていて、面白い。みなさんも是非読んでみてください!
 Mammo.tv >> 今週のインタビュー(2005.1.17-2005.1.30号) 小沢倫太郎 さん

ブロック遊びと飽き ―デザイン変更7回目―

ある都市遊民の肖像デザイン007 -Grace Under Pressure- 二段カラムにしました。が、すでにマイナーチェンジを施すつもりでいます。二段カラムにしたせいか、全体のボリュームが減って、レイアウトに味気ない印象を受ける気がするからです。
 ところで今回、ブログのデザインをああでもないこうでもないと玩んでいる最中にこの作業は昔の何かに似ているなという、既視感にも似た感覚が付きまとい、古い記憶を辿っているうちに、はたと気づいたことがあります。ブログのデザインをいじるのって幼いころの「ブロック遊び」を思い出しませんか? 棒状のブロックや太いブロック、平べったいブロックや赤や黄色の透明なブロックなど、小さなパーツを組み合わせて街や城や飛行機や車を作り、自分で物語を創り(あるいはそこに物語は生まれ)、しばらくのあいだそれで満足すると、やがてまたバラバラにして、再度創出する、その一連の流れが、延々とブログのデザインをいじくり続ける行為とどこか似通っているように思えるんですよね。「ブログデザイン萌え〜」とか!?*1
 もちろんこれは人によりけりで、あくまで僕個人の人間性ということなのかも知れませんが。それに、世の中にあるほとんどの行為はそういうものなのかもしれません。

*1:そう考えると「萌え」って何か、改めて考えてみる必要があるかも知れない。いや正確には「萌えが何か」ではなくて、「なぜ萌えるのか」ということなんだけど。「萌え」はある種の飢餓感から生まれてくるのかな?

森達也 『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』

  • 視聴率という大衆の剥きだしの嗜好に追随する現実を、公共性というレトリックに置換するために、「客観的な公平さ」という幻想を常に求められ、また同時にそれを自らの存在価値として、テレビは勘違いを続けてきた。」(P90)
  • 「絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの嗜好や感受性が異なるように、事実もさまざまだ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。今のメディアにもし責められるべき点があるのだとしたら、視聴率や購買部数が体現する営利追求組織としての思惑と、社会の公器であるという曖昧で表層的な公共性の双方におもねって、取材者一人ひとりが自分が感知した事実を、安易に削除したり歪曲する作業に埋没していることに、すっかり鈍感に、無自覚になってしまっていることだと思う。一人ひとりが異なるはずの感受性を携えているのに、最終的な表現が常に横並びになってしまうのは、そんな内外のバイアスに、マニュアルどおりの同じ反応しかしないからだ。」(P171)